ある程度の基礎学力は前提として、 理論物理学の研究-特に物性理論・統計物理学の研究-を遂行する上で大事な能力の1つは、 問題(ネタ)設定の能力です。 問題設定の良し悪しで研究の質の8-9割以上が決定してしまうと言っても過言ではありません (寿司ネタが悪ければ、どんなに腕のある寿司職人が握っても不味いのです)。 長年に渡って発展してきた物性理論・統計物理学分野では、 素人がすぐに思いつけるような面白い問題がころころ転がっている訳ではありません。 あらゆる学問分野には寿命があり、このことはその分野が誕生したときからの宿命です。例えば、21世紀の現在、 古典力学の研究を生業にしている研究者が稀であることを考えれば、このことに直ちに納得できるでしょう。 時が経つほど、重要な問題は解決しマニアな問題が残るのが必然です。 故に、物性科学を含む熟成した分野で真に新しい問題を発掘することは一朝一夕にできることではありません。 その分野の蓄積を深く学習し、多くの研究者の研究成果に触れ、彼らと議論をし、 新しいネタを見つけようと日々妄想することで、問題設定能力は養われます。 研究における(直)観は、先天的に与えられるものではなく、経験で養われるものなのです。 ただし逆説的ですが、問題設定能力は、既に知られていることを学習する能力(つまり勉強の能力)とは全くの別物です。 知識を蓄えることは問題設定する上で前提のことであり、その上で、 これまで人類が誰も考えたことがない問題を見出すことが理論研究には必要です。
上のような事情から、私を含めて多くの大学教員は大学院生や若手研究者に優れた問題設定の力を要求することはありません。 理論研究者を目指す大学院生は(適切な)指導者の下で、自分の能力を成長させてゆけばよいと思います (若いときから非常に高い研究能力を持つ方も稀にいます)。 ただし、いつまでたっても上に書いたような能力が鍛えられない、もしくは、そもそも鍛えようとしていない方は 理論研究者になるべきではないと思います。実際、そういう研究者が増えることは、 学生を指導できない教員が大学に増えることを意味しており、負のスパイラル構造が発生してしまいます。 これは、国の科学・高等教育の力の維持・向上、税金の有効活用、さらに大袈裟には国民の知性(民度)向上、 などの面からも重要なことだと思います。 このような研究機関の基礎体力に直結してくるのが人事です。 言うまでもありませんが、大学に限らずどんな組織においても現在ではなく将来を見据えた人事は 非常に重要だと思います(私は採用側の経験値が少ないので、偉そうなことは言えませんが)。 学生指導をしたくないorできない方は、研究所、あまり指導する必要のない大学院生が入学する大学(東大など?)、 大学院生がほぼ入学して来ない大学、 などの限られた研究機関に就職するのが適材適所ということになると思います。
一方、(既に述べたように)あらゆる学問分野に寿命があることから、各分野の将来性を考えながら 新しい分野に挑戦する勇気も大事な研究能力です。「研究内容」の欄に示したように、 新しい分野には価値の高い問題が潜んでいる可能性が高いのです (例えば、量子力学誕生当初は、3流の研究者でも生きていけた、というような逸話は良く耳にします)。 この考え方に基づいて私は最近境界領域の研究に挑戦しています。 長年1つの分野を極めてきた研究者を学部4年生程度の学生が見れば、 計り知れないほどの専門的な知識を持っているように見えるでしょう。 しかし、日常的な研究がそれまでの蓄積の上にほんの少しの新しい上乗せを加える作業であっても それを長年続けることで大きな蓄積となり、4年生に凄みを与えているだけかもしれません。 つまり、1つの分野を極めることは実は楽な研究スタイルに陥る、という側面があります (長年極めることで見えてくる風景もあると思いますし、生涯を掛けて難問に取り組む研究者も必要だと思います)。 例えば、by definitionでひとつの分野を長年に研究する場合、問題設定力は研究開始初期を除いて鍛えられない (つまり知らないうちに楽をしている)、という側面があると思います。 私は、パーマネント職に就いている研究者ほど(近距離の成果がなくとも失職しないのだから)新しい分野に 挑戦すべきだと思います。多くの研究者がボスの真似をしてばかりではその分野は衰退するばかりです。 その分野のおいしい部分は既にボスによって食べ尽くされていて、 雑魚しか残っていないかもしれないのです。特に、理論研究者は、莫大な研究費を必要としないので、 勇気さえあれば実験研究に比べてはるかに新しい分野に挑戦しやすいと言えます。 ただ、色々な分野を転々としすぎても大きな業績を産み出せる確率は低下しますから、 分野を極めることと分野に固執しすぎないことのバランスが大事と言えます。
もう1つの大事な理論研究者の能力は、モデル化の能力です。 これは、自分が予言する・解明したい物理現象の本質的な部分を抽出し、 研究テーマを数学的(論理的)にwell-definedな問題に焼き直す能力のことです。 問題設定能力の一部と言っても良いでしょう。この能力がなければ、具体的な理論研究は実行できません。 理論物理学で何か予言・説明するときに、予言内容を作文するだけでは誰も納得しません。 万人が認める客観的な表現に到達したときにやっと科学的な成果となります。 その為には数学の言葉を利用するのが標準的です。 このモデル化の能力も不断の努力で身に付くものです。 モデル化のことを「考えている対象に含まれる無駄な情報を捨てる」と換言しても良いでしょう。 人間が科学的に何かを理解することは情報を捨てることと等価である、といって過言ではないと思います。 その意味で、数学ではご法度の(?)近似計算は、モデル化の一部と言えます。 どういう近似計算を実行するかがモデル化のセンスの現れるところです。 繰り込み群の方法は、ある意味「無駄な情報を捨てる」という作業を 数学的に洗練された形に昇華した戦略(数学者から見れば全然昇華されていないと思いますが)と言っていいかもしれません。 ただし、繰り込み群は、ゴミも含めて真面目に処理しているので、賢くない方法とも言えます。 同じ意味で、全てのゴミまで含めて精密に扱う(非常に微視的な模型に対する)数値計算方法が、 考える対象次第で賢い戦略になり得ない場合もいくらでもあります (注意:現代の物理学において数値計算方法が重要な戦略であることを否定している訳ではありません)。 逆に、モデル化の観点からは、センスのある平均場近似や変分法が非常に賢い方法を与えることもあります (そんな平均場はめったにない訳ですが)。 当たり前のことですが、研究対象に応じてどのような理論的戦略が最適かを見抜く力は非常に大事です。
新しい分野を切り開くような研究や概念・方法の提案などを除いて、多くの理論物理学-特に物性理論-の研究は、 なんらかの新しい物理的内容を予言する(prediction)という作業と 既に実験研究で実現している物理現象を(微視的に)説明する(explanation)という作業の2種に分類できると思います。 この2つを認識していない研究者も多いのではないかと思います。 物性科学にどっぷりはまている理論研究者は、ほぼ後者の研究に一生を費やす方が多いと思います。 自然科学者として、常に実験を意識しているという意味で正しい姿勢と言えるかもしれません。 実際、実験家はこのような理論家を好む傾向があります。 しかしながら、理論研究には近似計算が入り込むことが常であり、 実験と合わせるような近似理論を構築することはある意味で易しい、という側面があります (ただし、上で触れた様に、近似は物理現象の本質を抽出する上で非常に大事な操作でもありモデル化の一部とも言えます)。 それ故、実験を説明する(にすり寄る)ことに固執しすぎた研究は理論家の存在意義を低下させる側面がある、と言えます (実際、パラメータを2-3個用意すれば、実験で得られたデータをうまく説明する曲線を 導いたように見せるいい加減な理論を用意することはしばしば可能です)。 一方、予言する作業は常に格好良いかと言うと全くそうではありません。むしろ、拘束条件を何も付けなければ、 いくらでも低級な予言が可能になります。 例えば「人工的に自分が解きやすい模型を持ってきてその模型の相図を完成させました」という作業は 予言を与える仕事と呼べますが、全く魅力的ではありません。
上の段落の予言と説明に関して: 私は、物理現象に強いこだわりがあるものの、どちらかと言うと予言を与える理論研究に魅力を感じます。 特に、実験より少し先を行く予言を目指すことが多いかもしれません。 予言と言っても千差万別ですが、私は物理現象との関連が非常に希薄な理論研究における予言には あまり魅力を感じません。例えば、数100年後に実現しそうな現象に対する新しい予言は、 数100年後の人類に任せればよいと感じます(耳学問の知識:天文学(の一部)では物性科学に比べて観測結果を得られる機会が稀であり、 10年(5年?)程度に1度ほど大きなデータの更新があるそうです。その度に理論家が色々なモデルを提案する訳ですが、 10年後にまたデータ更新がなされる際に、ほとんどの理論が"死んで"いくそうです)。 また例えば、物理屋が物理量と関係が薄いテーマについて数学的に深い知見を見出したとしても、 本当の数学から見れば大して深淵でない場合が多いと予想します。 故に私は、自然現象と関係していなければならないというルール(拘束条件)の下で、 研究者に「面白い」と思わせる成果を出したい、という思いが強いです。 抽象的なテーマにも魅力を感じることはありますが、それは、 そのテーマが物理現象の理解や物理量の計算に役立つ可能性があると思われる場合に限ります。 上の拘束条件の厳しさは、研究者によって大きく異なると思います。
私の問題設定能力、モデル化の能力、魅力的な予言を導く力、etc.は、研究開始当初非常に低いレベルでした。 研究を継続していく中で、少しずつこれらの能力が養われてきたと思います (へたくそだったことを自覚できているので、有限の成長はあるはずです。。)。 低レベルであった故、当然、早々に出世できるような成果・経歴を持ち合わせていませんでした (出世が目標ではないですが)。大学院生の自分はまさに井の中の蛙であり、生存競争意識が完全に欠けていました。 大学入学前から漠然と物理学者を目指していましたが、競争意識やインパクトのある成果の必要性に気づいていませんでした。 にもかかわらず、今までご飯を食べて来られたことに対して、ある種の運・縁に恵まれた面があると感じています。 ただ、その運を引き寄せたという自負も多少はあり、今までの何個かの小さな成果により 生き延びて来られたとも感じます。一方、多くの機関にお世話になり多くの方々と議論をしてきたおかげで、 私は(標準的な研究者と比べて)多様なタイプの上司の下で(共同)研究する経験値を有し、 また東大生から青山学院大生まで色々なタイプの学生を指導する経験も積んでいます。 これらの経験値は私の武器であり、これを今後の学生指導などで巧く活用したいと思います。 上司や共同研究者の良い面を参考にし、悪い面は反面教師として、自分なりの最適解を探していくつもりです。 いずれにせよ、研究活動を生業にしていることは大変ありがたいことであり、 自分の恵まれた環境を噛みしめながら研究活動に邁進したいと思います。
1つ1つの研究では、端的に言うと、周辺領域の理論家には「やられたー」「思いつかなかった―」と思わせ、 実験家には「お面白そう」と思わせ、さらには他分野の(自然)科学研究者にも「面白い!」と 思わせるような研究成果を導くことを目指します! 研究において重要視する点は研究者により多種多様ですが、私は 「新しさ」「独創性(意外性)」「普遍性」「現実性」を重要視しています。 この中でも「新しさ」は最も客観的に定義できる量と言えますが、 私は拘束条件なしで「新しい」理論成果を出すことは非常に簡単な仕事だと感じています。 理論家に都合が良すぎる問題を設定することは非常に簡単なのです。 研究成果にたとえ魅力的な数学やアイディアが詰まっていても、その研究対象が現実離れしていれば、 物理学としての価値は暴落してしまいます。上の繰り返しになりますが、 できるだけ「自然現象と関係している」という拘束条件を満たしつつ、 数理的にも魅力的で、かつ、新しい分野を明示するような結果を 目指していきたいと考えています。
言うまでもありませんが、上で述べた能力は特に真に新しい理論研究をする際に必須の要素だと考えられます。 これらの能力に基づいた理論研究は、人工知能(ディープラーニングなど)がどんなに進化しようとも すぐに彼らに成せる仕事ではないと信じています!
上で強調した能力以外にも、研究を続けていく上で重要な要素は他にも幾つかあります。 数学と物理の基礎体力は基本中の基本で、言うまでもありません。 研究成果は常に論文の形で表現・出版する必要があります。 従って、自らの成果を論理的で明快に説明する文章を作成する能力は非常に大事です。 これは、読書の力・会話の力・文学的表現の力などとは全く異なる能力です。 さらに、研究成果を研究会などで多数の研究者に広く知ってもらう必要があります。 それ故、聴講者の立場に立って論理的に分かり易く(易しく)説明する講演の力も必要です。 これらでは英語の力(私も足りてません)も大事です。 それ以外にも、コミュニケーション能力、人を納得させる会話術(カリスマ性?)、 いわゆる政治力なども研究を進める上では有利に働きます。 ただし、当たり前ですが、会話術や政治力は研究者になる(ご飯を食べる)上で大変有効かもしれませんが それだけでは良い研究成果を出すには全然不十分です。 研究者の給与は大抵税金や学生さんが支払う学費から来ている訳ですから、それに見合う研究成果や教育活動が求められるべきです。 同様にして、言うまでもありませんが、研究補助金も有意義に使わなければなりません。